ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』の読書録
《ジャン=ポール・サルトル(著)、白井浩司(訳)(1950)『嘔吐』人文書院》の読書録です。
まず小説として読んだ所感としては、何を面白いと感じるかは人それぞれだが、少なくとも私は面白い、興味深いとは感じなかった。日記という体裁や長い分析的な文章には、共感が薄い、理解や考えのまとまりを獲得する前にそれまでの文章の意図が雲散霧消してしまう。私の忍耐力では留めることができなかった。
日記という体裁と、主題である「嘔吐」の感覚を効果的に生々しく表現しようとするために自他の機微が緻密で刻々と書かれていて、悪く言うと緩慢で退屈であり、かつドラマチックな展開はほとんどないので、娯楽性は無いに等しい。人間くささがない。
とはいえ人の趣向は変わるものだから、いつか時間の十分ある、別の機会に読むことがあればもう少し丁寧に読み込んでここに追記してみたいと思う。
本書はロカンタンという名前の青年が、ある歴史上の人物についての研究をしている間に綴った日記という体裁で書かれた小説(もともとは評論として持ち込まれたものが、刊行の際に小説として売り出されたと、あとがきに解説がある)で、内容はおおよそ、町での暮らしと仕事、「嘔吐」の発見、独学者との出会い・会話、「嘔吐」の正体、元恋人?のアニーとの再会・会話、振り返り・町を去る、というように分けられる。
公園にある木の根から「嘔吐」感の正体を見出す件がある。ここでは具体例まであげて、比較的分かりやすく書いているので、直接的に理解したいのであればこの辺りを読み込むと良いかと思う。それ以外の嘔吐に関する言及は、その性質を指摘するにとどまっていたかと思う。
「嘔吐」の正体を公園にあった木の根っこから看破したと感じた主人公は、昔付き合っていた、その当時運命的にも同じ主題を同じように考えていたアニーとなら、この発見をきっと共有できるだろうと、いわば答え合わせをしたくて会いに行くことにした。多分再び同じように思索と愛の一時を過ごせることを期待して。
孤独感から救われる期待を彼女に寄せていたことは間違いし、会っていなかった間のお互いのことを共有し、あの「嘔吐」感についても伝えたかったことは間違いない。彼女との会話の中で、彼女が自分と同じように「嘔吐」と同じような理解に至ったことを見つけて二人は別れていながらも再び同じ交差点に向かっていたのだというような確信めいた喜びを感じた刹那、そもそも問題にあたる態度が違うのだと、彼女ににべもなく否定されてしまった。彼女にあって生じた愛情と共感も、彼女に手を振りほどかれて宙ぶらりんのなったまま、彼は街に戻ることになった。
アニーは会話のなかで「特権的状態」とそのあとからくる(なすべき・果たすべき)完璧な瞬間が訪れるはずであり、ロカンタンと付き合っていた当時と、別れてから暫くの間はそれを信じていたが、幻想であったと気が付いたのだと語った。臨死に際する無我夢中の状態や、憎しみや愛情によって我を忘れている状態、それらによって自身と空間が満たされている重みのある恍惚とした瞬間は、実際には私の中にある感覚とそこにいる私、という存在に帰着し、自分の信じていたような世界の中に溶け込んだ瞬間は絵空事に過ぎなかった、という事だと思う。
ロカンタンはそのアニーの言葉に確かに、自身の「嘔吐」感に通じる、存在の認知に対する孤立感、認知の乖離を共感したようだ。
おそらく、ロカンタンは幾つかの解離性を一つのものとして理解している。うち一つは言葉と実物との解離(名前が与えられているだけで、そのもの自体の今ここにある状態や性質=「本質」は離れている、離れやすい、ということ。同一ではない、繋ぎ止められていない、ということ)と、他の一つは自分とそのものの存在が(あるいは自分自身が)かけ離れている、実体感がない、ここにあるという感覚が薄く床しさがなく浮いている感覚。
「嘔吐」は自身の知覚・認知と、その実態との乖離に感じる不安定感と定義できると思う。 ただ、いくつかロカンタンが例を挙げたものが、例えば色の名前と実際の色との結びつきの薄さ、などの具体例を出すことがあれば、自身と物体との結びつきの薄さ・そっけなさ、というように、また少し定義の異なった例を出しているところを見ると、「恐怖」という言葉がいくつかの種類を持つように、「嘔吐」という感覚もいくつかの種類を持つ総合的な概念のように思う。
なぜ人は生きるのか、生きている目的は何か。その主題について、私が存在するように木や石も存在し、互いに干渉しないながらも同じ世界に存在しているという「並列的な実在感」をもって生きてきた私としては、ロカンタンが感じた不安や、サルトルが説いたような希望に至ることはなかったが、解離性障害や統合失調症などの心理的脆弱性を持つ状態には、この実存主義の探求が一つの答えと癒しを齎すのではないか、と思う。希望を求めている人には希望があると伝えたほうがいいに決まっている。機会があればもう少し考えを深めてみよう。
とはいえ、本書は慰めることが目的ではない。人によっては大きな共感を得ることができると思うが、そのために読むには難しすぎる。